Interview for tetsuya_nagato

9.Tetsuya Nagato(Art Director) / 永戸鉄也(アートディレクター)

PROFILE

1970 年東京都生まれ。高校卒業後に渡米し、帰国後からアートディレクターとして活動。2003 年、第 6 回文化庁メディア芸術祭デジタルアート優秀賞受賞。同年、トーキョーワンダーウォール公募 2003・ ワンダーウォール賞受賞。 2012 年、第 15 回文化庁メディア芸術祭審査委員 会推薦作品に選出される。UA、RADWIMPS や THE BACK HORN、Salyu など国内アーティストの CD ジャケットデザイン、ミュージックビデオの制作に携わる。音楽に限らず、書籍のデザイン、広告、ドキュメンタリー映像など、幅広い分野でも活躍。また、一方でアーティストとしてコ ラージュ写真、映像製作も意欲的に行う。今年、自身で「ただ存在すること」をテーマとした「株式会社 IRU」を設立し、この活動のスタートとしてフォトグラファー水谷太郎と個展「 STILL SCAPE」を神楽坂「la kagu」にて開催した。http://www.nagato.org/

Question & Answer

永戸さんの声を初めて拝聴したのは今年、神楽坂で開催された水谷さんとの展示「la kagu」でのトークショー。流行にとらわれない「存在することの価値」を問う内容であり、RADWIMPSに始まる音楽ジャケット、MVはもちろんのこと永戸さんの代名詞ともいえるコラージュ作品からまた新たに進化したクリエイションについての提案(プレゼンテーション)であった。フリーのデザイナーとして経歴をスタートし、現代を生き抜く一人のクリエイターとしての姿もさることながら、自身の感覚を元にクリエイションを日々更新していく永戸さんには脱帽の念を抱かずにはいられない。今回は本誌インタビューを通して、クリエイションについて価値観、またアートディレクションとしての仕事との考え方を伺った。
  • Q1.デザインを始めたきっかけを教えてください。
  • Tetsuya Nagato(以下TN): 家が木工所だったんですが、そこで子供の頃から木を切ったり、物を作ったり、描いたり、それこそ粉まみれになった職人たちがいる環境で遊んでいました。特に親戚の人でよく面倒を見てくれた人がいて、その人が空間デザインやインテリアデザインを勉強していたんですが、他にも独学で宗教学や、音楽のディキシーランド・ジャズもやっていて、よく遊んでもらいました。小さい頃から絵を描いたり、何かを作ったり、学校でも図工は好きでした。そういった環境がきっかけだったのかもしれません。
  • Q2.高校卒業とともに渡米されていますが、そのきっかけはあったのですか。
  • TN: 元々、音楽と絵は好きで、当時はアメリカブームの真っただ中で、小学5年生くらいにはみんなとアメリカのサブカル音楽を聴いたり、海外の雑誌を見たりしていたりしていたので、いつかアメリカに行きたいなという憧れはありました。 高校でスケートボードを好んでやっていた時に、下北沢にあった「バイオレントグラインド」というハードコアスケートのお店に通っていたんですが、長く通う内にその環境に慣れてしまって、ふと環境を変えたいなと思っていました。高校の卒業式に、同級生が留学ジャーナルという雑誌を見せてくれました。まだ卒業後の進路が決まっていなくて、この先どうしようかと考えたときに、「ああ、留学という選択肢があるんだな」と将来のきっかけみたいなものを見つけました。それで一番安いとこでいいからと親を説得して、一年間勉強してからアメリカに行きました。
  • Q3.アメリカの生活はどんな感じだったのですか。
  • TN: 現地の人と仲良くなって、音楽や絵をやったりしていました。はじめにフロリダのタンパという場所で1年半ほど学生をしていました。その後一度帰国し、大道具のアルバイトで貯めたお金を持ってブルックリンに行き、アルバイト生活をしていました。アメリカでは本当に色々な経験をしました。
  • Q4.当時、参考にしていたデザイナーはいますか?
  • TN: あまりデザインや現代美術には関心がなかったです。ダリやエッシャーなどは好きでしたけど。アメリカの路上の状態や、街並み、自然と目に映るものに、興味がありました。
  • Q5.20代後半でデザインの仕事を本格的に始められますが、それ以前はどういったことをされていたのですか。
  • TN: ブルックリンから戻った後は、遺跡発掘のバイトしながら、バンド活動や絵を描いたり、自主映画を撮ったりしていました。そんなことを何年かやったのちに、高田馬場にあった司法試験の塾にバイトを見つけました。そこでポスターや印刷物の仕事をさせてもらいました。それが最初のデザインの仕事だったと思います。そこでパソコンに出会い、家賃3万の風呂なしアパートに買ってきました。当時はモニター、スキャナー、本体で80万くらいでしたか、。それから、フォトショップやイラストレーターの本を買ってきて、早朝、バイトに行く前に写真加工や文字組み、ロゴデザインなどのトレーニングをしていました。
  • Q6.当時、ご自身でお仕事の営業回りをされていたと伺ったんですが、当時のことを具体的に教えていただけますでしょうか。
  • TN: きっかけがありまして、たまたま妹の知り合いに写真家がいるということでことで一度紹介をしてもらって、そのときに「どうやったら仕事をもらえるのか」っていう相談をしたんです。彼が自分のブックをおもむろに見せてくれて、「これ持って回るんだよ」って教えてもらいました。そこで初めてこうやって仕事を得ていくのかと知りましたね(笑)。そこから、コンピューターで作っていたイラストやコラージュでブックを作り、出版社やレコード会社、ゲーム会社、ギャラリー等、思いつくところすべてに連絡して、営業しました。たまに仕事が入って、絵を描いてイラストとして使われていたり、企業のカレンダーになったり、音楽CDのジャケット等の仕事などしてたんですが、なかなか仕事は回りませんでした。そんな中、前にイラストの仕事をしたミュージシャンのUAから電話をもらい次のツアーのAD(アートディレクター)を依頼されました。そこから、仕事が回り始めたんだと思います。当時31歳くらいだったでしたかね。
  • Q7.その経験を通して得たことを教えていただけますか。
  • TN: 自分の場合、絵だけやっていても一度使われてしまったら次に繋がらなかった、デザインでも同じことが起こる。その辺りからアートディレクション、映像のディレクションもやるようにしました。最終的に予算の割り振りを決定できるポジションの近くにいかなきゃ駄目なんだということを考え始めました。話し方についての本やビジネス本、交渉本など読んで、1人で黙々と考えてやっていました。 今でもプロジェクトが目指すことを強く意識して、グラフィックデザイナー、AD、CD、その時々の立場で仕事をするようにしています。モノつくりだけでなく、予算を把握したり、ディレクションの立ち回りなどを意識することも大切な事だと考えています。
  • Q8.永戸さんの印象的なお仕事でミュージシャンのRADWIMPSとの音楽ジャケットやPVのお仕事があります。彼らとの仕事のきっかけを教えていただけますか。
  • TN: UAのツアーに参加した時に映像作家の掛川康典君と出会い色々な感覚を共有しました。それで知り合ってから何年か経った頃、自分のコラージュでRADWIMPのMVをやりたいという話をもらいました。曲を聞き「これは本気で関わる音楽だ」と強く感じ、仕事を引き受けたことを覚えています。
  • Q9.最初、RADWIMPSの音を聴いたとき、どんな印象を持ちましたか?
  • TN: どこかで共通するものがあったのかもしれません。若い世代でこういう主張をしているというか、しかも、ちゃんとそれが聴き手に評価されていることも驚きでした。自分も宗教感の模索というか、どこか既存の宗教でない宗教を自分で作れないかと思っていました。彼らの音楽にも似たような思想を感じ、全部壊してでも次を創ろう、というような強いものだったので、これは本気で更に自分を出して関わろうと、。また、同世代でなく中高生を中心に認知されたアーティストなので、彼らのような聴き手が自分の仕事から何を感じ取ってくれるのかを見れるということもやりがいの一つです。
  • Q10.RADWIMPSのデザインで「おしゃかしゃま」「アルトコロニーの定理」、「DADA」など数々の音楽ジャケット、PVを手掛けられていますが、当時はどのようなモチベーションで作られていたのですか。
  • TN: 「おしゃかしゃま」のMVは最初、近所のごみのリサイクル場で撮影したかったのですが、許可が下りず、その場の写真を撮って美術の人に頼んでセットで再現してもらいました。紙のリサイクル場を背景にスタートして、これが変形しながらCGで動いていく。当時やっていた即興映像、ライブコラージュの手法も取り入れました。出力した洋次郎君の顔写真をカッターで切ったり、仏像の画像に火をつけたり、文字をちぎったりと、最終的に楽曲の世界観が深く表現できた映像になったと感じています。 「アルトコロニーの定理」のCDジャケットのコラージュは、元々、MVのキャラクター設定用に作ったもので、映像の中で変形したり、動いたりするイメージで考えていました。他に、全曲を手の動きだけで表現するアイデアをジャケットとして提案したのですが、説明資料で作ったこのキャラクターを彼らが気に入ってくれて、そのままジャケットになった感じです。ちなみに、このキャラクターの名前はCDジャケットをジャックしたという意味で「ジャック」と名付けています。 シングル「DADA」のジャケットは、CDロゴを大きくレイアウトし、後ろにCDの定義とか価格の定義が書いてあるんですが、CDが売れなくなっていく時代にCDがCDたることを嘆いている、不安がっているイメージで作りました。PVではCDジャケットのコンセプトから、白ホリ(白い背景の撮影スタジオ)に原寸の歌詞を置こうということで、その歌詞にメンバーがまみれて、サイズもおかしくて、文字と文字ぶつかりあって違う文字になってしまう、、様な、イメージを彼らに伝えました。映像は清水(康彦)君。、歌詞をレーザーカッターで切り出せるようにアウトラインデータを作ったり、文字のパーツを分解して合体したりと、。清水君の編集能力と、過剰なディレクション、あとは自分の中にあった文字コラージュの感覚が合体したPVでしたね。
  • Q11.映像を作る上で重要視していることはありますか?
  • TN: 普段の景色、視覚に入るものをまぶたでカット編するような感覚で作品にすることがよくあります。多角的な見方をしていけば、人通りの多い街の風景が、看板があって人がいるという見方と、看板と人の境目を無くして、フラットに見ることや、看板一つとっても文字としても、図像としても、捉えることができる。距離や色彩、光や具体的な情報、色々な切り口で見立てるような、視覚遊びをしています。何気ないこの窓から見える風景1枚でも妄想が膨らめば映像が一本、作れると思います。
  • Q12.野田洋次郎さん(RADWIMPS)のソロプロジェクト「illion」について教えていただけますか。
  • TN: 彼が以前から海外で活動するというということを聞いていて、それで名前決めから一緒にしていました。僕が最初にイメージしていたのは、「バイセクシュアルな巫女」で、通常、巫女は女性なんですけど、あくまでも中世的な存在なんだっていうこと。名前決めの時、いろんな候補があったんですが、彼が書いていたノートに候補の名前が書いてあって、その中に「illion」があったんです。それを見たときに直感でこれだと思い、その名前をすすめました。同時に、その名前のロゴも浮かんできて、「i」と「i」が小文字で、人と人がいるんだけど、お互いに自分の壁を作って向かい合っている。そして「on」という言葉に乗っているんだよって(笑)。「illion」っていう言葉は、「イルとライオン」っていう二つの言葉が入っているんですが、「イル」はアメリカのビースティ・ボーイズ(Beasite Boys)の「イル・コミュニケーション」というアルバムから子供っぽいクレイジーな感じで、「ライオン」はボブ・マーリーの曲で「アイアン・ライオン・ザイオン」からストイックな感じを受け、2つが合体しているイメージだったら最強だと、それでバイセクシュアルの巫女なら海外で一人で立って勝負できるだろうと。
  • Q13.コラージュを作るとき、どういったイメージで作品を作っていくのですか?
  • TN: 特に前後の物語は考えていなくて、僕の場合は、コラージュで形を作っていこうということではないんです。起きる現象を辿りながら次の現象を待ったり、引き出したりという感覚で、切ったところの形や接合部分で見えてくる形状や質感が次を呼んでくる感覚なんです。切った紙を乗せたり貼ったりして、何かが起きることを待つような。その作業を続けていくと、完成したというポイントが見えるんです。
  • Q14.ファッションブランド「UNDERCOVER(アンダーカバー)」の映像や広告にも携わっていますが、デザイナーの高橋盾さんについてどんな印象をお持ちですか。
  • TN: 年齢も近くて、コラージュ感が似ているんですかね、、。色んな事からインスピレーションを受けようっていう貪欲さがすごくあって、でも過去のものはかえりみない大胆さというのか、。あとはすごく頑張っている人なんですけど、誰に対しても彼はフラットなんですよね。
  • Q15.仕事をする上でのコミュニケーションについて、教えていただけますか。
  • TN: ディレクションやデザインをする上で相手の情報をできるかぎり生かしたいという思いがあります。例えば、一緒に散歩をしたり、食事をしたりとか、そういうことをしながら話をするようにしています。 相手と共有することは、デザインや映像だけでは伝わりづらいこともあります。どういった意図で、思いでつくっているのか、説明しなければならないですし、そういうこともあって、お互いの情報をできるかぎり共有することは必要だと思います。
  • Q16.今年、水谷太郎さんと一緒に個展「STILLSCAPE」を開催されました。詳細を詳しく教えていただけますか。
  • 以前から、二人で何かやろうと話はしていました。そのタイミングで神楽坂の「la kagu」から展示の誘いが来ていたのが一番のきっかけだったと思います。  内容は、僕らがカメラマンとADではなく、個人としてお互いが共有している「視点」についていかにプレゼンできるかっていうのが根本になります。「STILL SCAPE」という言葉は、静物(スチルライフ)と風景(ランドスケープ)を繋ぎ合せた造語なんですが、目に映る表層だけでなく、見方によって、既成概念にないものを発見し、日常でも使えるような視覚の楽しみ方を提案できないか、という思いを込めて作品を展示しました。
  • Q17.現在、新たな試みとして永戸さんご自身で「IRU」という会社を建てられました。詳しく教えていただけますか。
  • TN: 「いる」というただ存在することだけを表現する場を作りたいと。個展「STILLSCAPE」もこの「IRU」のスタートとしての一つです。色々な手段で、流行や音楽とは別の「存在する」ということをテーマとして表現していくための、会社というよりはアンビエンス(周囲環境)というイメージです。
  • Q18.最後に最近のお仕事、クリエイションについて、ご自身で感じた新たな刺激、発見がありましたら一つエピソードを教えていただけますか。
  • TN: ボクシングと卓球が今の自分の刺激になっています。それは、1日24時間の中に数時間、空白の時間を作るために実践していて、デザインや音楽、仕事のことはは一切考えず、感覚を研ぎ澄ますことも含めてやっています。考えることだけだとどうしてもリミットができてしまって、それを超えるための自分じゃない時間、どこか瞑想のように捉えて日々実践しています。