Interview for kunichi_nomura

12.Kunichi Nomura(Creative Director)/ 野村訓市(クリエイティブディレクター)

PROFILE

1973 年東京生まれ。幼稚園時代から活字中毒とアメリカ好きに囲まれた青春時代を送る。12,3 歳の時に初めて憧れのアメリカを訪れ、カルチャーショックを受ける。そしてまた、その興奮冷めやらぬ間に高校時に学校の交換留学で渡米。その後、大学在学時からバックバッカーとし て世界を回る。帰国後、家具インテリアを扱う会社イデーの黒崎社長とペンキのアルバイトで出会い、それを縁に海の家、インタビュー雑誌「SPUTNIK」を企画、制作する。現在 TRIPSTER では部屋の内装やデザインの仕事をし、個人では「BRUTUS」や「GRIND」等で雑誌の執筆、企 画など幅広く手掛けている。また、J-WAVE ラジオ番組「Antenna Travelling Without Moving」ではラジオパーソナリティとして活躍中。http://tripsters.net/

Question & Answer

小雨が降る4月の夜、都内に事務所を構えるTRIPSTERを訪れた。 26歳の時に、雑誌経験もないまま、世界を回り、ほとんどアポなしで名だたるクリエイター80人余りを取材したインタビューマガジン「SPUTNIK」について、どうやってその雑誌が作られ、そして、それを作った野村訓市という人間はどういった人物なのか。直接本人に聞いてみた。
  • Q1. 学生時代からバッグパッ力一をされていたとお聞きしました。日本に戻ってきた理由と当時のお話を伺えますか?
  • Kunichi Nomura(以下KN):当時はお金がなくなると、海外放浪から日本に帰ってきて、1ケ月間、佐川急便で働いて、そこでお金を猛烈に貯めてまたどこか海外に行こうかみたいなのを繰り返しやってたね。でも、ちょうど年齢的なのかな。何かそれをやってまた旅行して帰ってきても意味がないみたいな風に思う年頃だったわけ。一緒に遊んでいた旅行友達もちょうど日本に帰ってきてたから、これからどうしようかってお互いに話してたね。
  • Q2. その後、どのようなことをされていたのですか?
  • KN: その時に仲良しの1人が大工をやりたいって言ってたんだよね。インド旅行も一緒に行ったり、ずっと10代からの友達なんだけど、すごい無責任な友人かな(笑)。そもそも釘も打ったこともないのに大工もやろうって勧めてきたからね。自分は 高校の交換留学でアメリ力にいたとき、お世話になったホストファミリーの長男に150年くらい前の廃嘘になっていた農家を 改造するのを手伝わされたと、何となく一通りはやっていたから。それでまずは基礎のペンキ塗りからだって言ってペンキ塗りから始めることにしたね。
  • Q3. ペンキ塗りのお仕事は実際されたのですか?
  • KN: 当時、イデーっていうインテリア会社のお店が青山にあって、そこに力フェがあったんだよね。お店はすごく流行っていた んだけど、忙しかったから外観が汚れちゃっても壁を塗る暇がなくて、塗れるとしたらその営業が終わった後とかでね。それで、 ちょうどその会社の人がペンキ濡れる人を探してるって聞いたから、おれらやりますって言って。それで塗ったんだよね。
  • Q4.ご自身のインテリア、内装のデザインの原点になった「海の家」もその時に行われたものですか?
  • KN: イデーの社長で黒崎さんっていう方が元々ヒッピー好きで、自分も60年代に育って、アメリ力に布団を持っていって売っ たりとかしたことがあるという話を聞いて。それで、自分たちの身なりを見て、「なんか今もこんなのがいるのか」みたいに親近 感を持ってくれたんだよね。その後も、お互いに色々話していく内に、「じゃあ、君たち面白いな」ってなって、100万貸してあげ るからなんか面白いこと一緒にやろうって言われたんだよね(笑)。その時は、返せる自信がないから友達3人に声かけたりとか して。これだったら失敗しても1人25万の借金だし、佐川急便の仕分けだったり、土木工事なんかやれば、1か月でとにかく返せ るわけじゃないかみたいなことも考えて。ご飯とかも当時みんないつも誰かアパート持っている友達のところに転がり込むっていう感じだったからね。それで、じゃあ100万借りて何かやろうかって言って考えたのが海の家だった。
  • Q5. なぜ、「海の家」だったのですか?
  • KN: 何ができるかなって思ったときに何もできないっていうか......職歴がないから、みんな考え込んじゃって。いざ100万借 りて、何をやろうっていっても何もない。だから、人より何をできるか、自分達がやったって胸張って言えるじゃないけど出来 るものは何かって考えた時に旅行してきたということしかないなって思ったんだよね。でも旅行してきたといってもね、それで何が楽しかったかっていろいろ考えた。なんていうのかな......世界遺産みたいなの見て写真を撮ってきたっていうわけでも ないし、もちろん夜明けとかの景色もすごい好きで、現地の人と戯れるとかも楽しかったけど、別に旅番組みたいなのが好き だったわけじゃないから。結局なんか同年代の似たようないろんな雑多な人たちと遊んだり、出会うのが旅の醍醐味なんだろうって思って、だったらなんかそういう場を作るのがいいと思ったんだよね。それで100万円でできる場と言ったら海の家ぐら いだろうって思って。海だったらみんな短パンだし、泳ぎに来てるからあんまり派閥で別れないっていうか。
  • Q6.海外にはそういった場所があったのですか?
  • KN: そうだね。自分たちも旅行に行っていた時もそういうサンセットバーみたいなミーティングスポットがいろんなところに あって、まあいろんな人が集まって音楽を聞いて楽しかったんだよ。だから東京にそういうのがないから、それを作ればいいか なって思ったのがたまたま海の家で。まあ海の家じゃないとできないだろうって思ったからね。それを夏しかできないけど、 やってたよ。
  • Q7.その後、インタビューマガジン「SPUTNIK」を始めたのですか?
  • KN: その後は「これ面白いから海の家が終わっても何かやろう」って黒崎さんが言ってくれてね。「僕の夢は世界でもイケてる若者向けの雑誌を作ることなんだ」とか言ってたかな。「君は若いし、英語もしゃべれるし、なんかいろんな知り合いもいそうだし、そのクールな雑誌を作ってくれ」って言われて。でもデザインとかもあれば、自分は出版社なんかで働いたことないし、クールについて自分なりの考えはあったけど、きちんとした意味はわからなかった。雑誌にそんな、自分で作って時間をかけたら、 新しい物っていうのは古くなるから、それはできないって一度断ったりしていて。 でもただ当時自分がまだ迷ってたからね。実際、こういうインタビュー雑誌だったらやりたいっていうアイデアはあって、 ウォーホールの「INTERVIEW(インタビュー)」っていう雑誌が昔から好きで、いろんな人のインタビューが載っている雑誌なんだけど。大きさも紙も質も好きだった。あとは「Whole Earth Catalog(全地球力タ口グ)」も好きで、今も有名だと思うけ ど、60年代に発行された生き方力タ口グみたいなものかな。それで自分は人のインタビューで「Whole Earth Catalog」を 作りたいって話をしたんだけどね。そしたら、黒崎さんが「そのインタビューっていう雑誌をもちろん知ってるけど、『Who1e Earth Catalog』っていう名前も久しぶりに聞いたな、自分が学生の時に確かに有名でバイブルだったよ」って。だから若いおれがいきなりそんなこと言うから、すばらしいじゃないの!みたいな話になって(笑)。「じやあそれを作ってよ」って言われて「じゃあ勝手にやります」って言って、1年かけて作ったのがあの雑誌かな。
  • Q8. 雑誌制作について、当時のお話を伺えますか?
  • KN: インタビューした人は全員で何人だったんだろう。取材が間に合わなかった人もいたしね。でも、自分では70人くらい かな。他の友達に行ってもらったのもあったね。もう間に合わないっていうか、もう自分にお金がないからさ。
  • Q9. 海外のいろんな国を回るのは大変だったのではないでしようか?
  • KN: 半年間、自分は旅行していたけど、一回も宿に泊まってなかった。泊まる所は、若いころに海外旅行で出会った友達がみんな助けて<れたり。あと、取材した人の家にそのまま泊まることも全然あったしね。だから、実際は全部で80万使ったんだけ ど、チケットで40万使ったから、半年ほぼ40万で暮らして取材したね。電車も乗らないし、口ンドンとかニューヨークにいるときは全部歩き。だって頑張れば歩けるじゃない。別に1日中、仕事しているわけじゃないし。それで要所要所で知り合った人から ごはんをもらったりしてたかな。例えば、ニューョークだったら安いピザを食べて、1日3食ピザとか。1枚、その時1ドル20セン トだったからね。まあなんとかなっちゃうから。なんとか食いつないで移動しながらその間にインタビューしてみたいにね。
  • Q10.取材先のアプローチはどのように行っていたのですか?
  • KN: 連絡先がわからなくて、わらしべ長者みたいなことをやったりしてたよ。友達からアイツがすごい面白いから、あの人を 取材しようかみたいな、それをずっとやってた感じかな。全員会ってくれたけど、大変だったよ。自分が誰だか知らないし、名乗るメディアもないから、とにかく調べて電話してファックスしたりして。メールを送ってくれって言わ れたときはネットカフエとかでやってた。当時は口ンドンだったら1ポンドで1時間ネット のチケットが買えるんだけど、でもお金がないから、メールを送ったら接続をすぐ切 るっていうことをやってたね。でも実際ファックスを送ったりしても、届いてないって 言われたり、またメールを送ってくださいとかよく言われて。結局、これじゃ埒開かないなって思ってアポなしで住所を調べて、そこピンポンするっていうのが一番手っ取り早いってことに気付いてしまい......結構それが多かったね。事情を説明すると会ってくれる人たちが沢山いたから、本当によかったよ。
  • Q11. 取材を通して、得たことをーつ教えていただけますか?
  • KN: 取材を頼んでも全然ダメで、でも直接その人の家に行って、トントン叩いたら 会ってくれたりしたことが多かった。取材が終わって別れるときに挨拶すると、向こう の人は「いやーだっておれ達も最初お前と同じようなものだったから。学生の時に友達 と集まって始めて、いろんな人に頼んで、門前払いとかでやってきたから、自分達の10 代の頃と同じことをしているお前が来たんだったら、もちろん同じことはしてやる。」って言ってくれたんだよね。スゴイありがたいなと思った。ちゃんとこの取材を終 わらして、形として見せたいなとそれですごく思ったし。だから逆に自分もいま、若い 人がいて同じように尋ねてきたら、自分もできるだけ返すっていうのはあるかな。
  • Q12.本誌の内容について、写真やデザインはどうされていたのですか?
  • KN: 力メラは半分以上、フロスティっていう海外の友達が撮っているね。自分は3ケ月、3ケ月で2回、取材で回ったんだけど、2回目の時にはフロスティを連れて行って撮り直していったりしていたかな。 デザインについては取材した人によって、ページのデザインをかなり変えているんだけど、作ったことがないから、インタビューしてから考えればいいと思っていて。デザインに合わせてこういうのが必要だっていうときに、もはやそういう素材がないっていうのが全部取り終わってから気づいたんだよね。それでどうしようかなってとき に、紹介してもらったデザイナーさんに色々やってもらったんだけど、どうも自分の意図がうまく伝わらない。それで納得できなくて「申し訳ないけど他とやります」って言って断った。その人が悪いとかっていうんじゃなくて、感覚がうまく合わなかったっていうのかな。自分もこういう風にしたいっていうのを作ったことがないから、説明が上手く伝わらなかったと思うけど。
  • Q13.デザインを力ルチャー雑誌「STUDIO VOICE」で有名な岩淵まどかさんが担当されています。きっかけを教えていただけ ますか?
  • KN: その後、またいろんな友達にデザイナーさんの名前を聞いて、色々て作品見ていたね。その時に、友達から「岩淵さんは人気 で、いますごい面白くて合うんじゃないか」って教えてくれて。岩淵さん(岩淵まどか)っていうボイス(STUDIOVOICE 〔スタジオボイス〕力ルチャーマガジン)をやったり、他にも色々とやってた女の方だったんだけど。自分も彼女の作品を見ていいなって思って会いに行ったんだよ。
  • Q14.岩淵さんとはどういったことを話されたのですか?
  • KN: 雑誌について、これはこういう意図でこういうインタビューだからこういうホールアースと合わせたものを作りたいとか 説明していたかな。その人の作品というか、生き方がちゃんと反映するページにしたくて。あとは、ずっと文字で同じような写真ばかりだと飽きちゃうから動きが欲しいみたいなことをとうとうと話してた。でも当時、予算はなくて、足りなかったから働いてでも返すから受けてくださいって頼んだら、岩淵さんが面白がってくれて。たぶん自分の仕事の金額じゃなかったと思うけど、受けてくれたんだよね。当時は忙しかったのにね。
  • Q15. 表紙のデザインがブラックー色でとても印 象的でした。このデザインの意図を教えていただけ ますか?
  • KN: 表紙はどうするっていうのがなんだかんだ大変だったな。なんかこの人たち、この雑誌を象徴する特別な誰かがいるわけでもないし、各々違うところが素晴らしいわけで、色をつけたらいけないと思った。だから全部の色を混ぜると最後は黒になるっていうから、混ぜて黒にした。ブラックボックスみたいだったしね。でも表紙は黒がいいって言ったら、インクがすぐはげるとか、いろんなこと言われたけど、それだけは譲れなくてこうなったんだよね。
  • Q16.販売はどうされていたのですか?
  • KN: 販売は地方中小出版っていう大きい流通じゃなくて、インディーズの書籍などを扱う流通に卸して、一応、日本中に売ったんだよね。全部で1万部以上売れたのかな。部数は1万2千とか3千部刷ったと思うけど。最後のストックは自分がちょっと持ってるけど、基本的に市場に出てたのは全部なくなったんじゃないかな。
  • Q17.雑誌制作を終えて、ご自身で感じたことをーつ教えていただけますか?
  • KN: この雑誌を作って思ったことは、よく他人の意見は気にするなとか言うじゃない。自分は自分だとか。でも人に見せなきやモノの価値ってわからないって思う。だから何かを始めたら、きちんと終わらせて、それを外に出して、人の評価を絶対に仰がなきゃいけないと思うよ。批評を受けることは大事だから。だからそれに対し、別に人が何て言おうと 自分のこれが自分にとってベストで好きだと変えないのは、その人の、自分の意思で、もしくは言われて痛感することがあって、失敗したとか次はもっとうまくやりたいとか思うかもしれない。でもそういう機会を持てるのって結局何か始めたときにちゃんと終わらせて、外に出すということだと思うよ。 それは雑誌を作って学んだことだし何人にも言われたんだ。「やり始めたら必ず終わらして人に見せなさいって」。その通りだと思う。
  • Q18.インタビューマガジン「SPUTNIK」を終えて、 周りの環境について変化があったと思うのですが、 ご自身の中で心境の変化はあったのでしょうか?
  • KN: 黒崎さんと会う前の、海外放浪から帰ってきてしばらくは、もう本当に腐って自分の家じゃないけど友達の家に引きこもってた。これからどうしようみたいな。だからタイミングが合わなかったら、たぶん青山のそのペンキ塗って青山のおしゃれ家具屋の社長が会おうって言 われても正直会わなかったと思う。だけど外に出てペンキ塗ろうっていう自分達を見た黒崎さんが面白がってくれた。だから外に出ていかないとダメなんだろうねと思うよ。
  • Q19.具体的に教えていただけますか?
  • KN: 例えば、夜な夜な集まって雑誌を作ろうとか話すのはいいと思う。だけどそれが自分の家とかいつも同じ居酒屋で話して それで終わっては駄目というか。実際にアクションを起こして、外に出ないと絶対に何にも始まらないじゃない。いつまでたってもまだ用意ができてない用意ができてないってなると用意万端っていつなんだよって話になるから。
  • Q20.ご自身の経験にも反映されていることですか?
  • KN: 自分にとっては100万貸してもらって海の家を始めて、その場所をいろんな人が面白がってくれた。雑誌を作ったことも ね。自分はそれがあって「じゃあうちでも書かないか?」とか、そこから「これできるんだからこういうこともできない?」とか聞かれるようになったから。海の家の形とか、当時自分たちが作ってたものを面白がってくれて、じゃあこういう内装も出来るのかっていうとこから、色々と広がったことが多いと思う。